こんにちは。
『手のかかる子ほどかわいい』という言葉がありますが、私が我が子たちに感じているのは「かわいさ」ではなく「愛おしさ」です。
言葉通り、我が子たちは手のかかる子どもでした。それは、他の誰かから見たら些細な問題かもしれませんし、意外とどこのご家庭にもあった悩みかもしれません。でも、私からしたら子育てはとても大変だと感じていました。ただ、当時を振り返ると、多分子どもが大変だったというよりも私が大変だったのだと思います。
子どもたちは現在社会人になり、真面目に働いています。息子は去年入籍をし一児の父親になり、長年にわたって交際をしていた息子の彼女が我が家に同居を始めて半年。二世帯住居として設計された家ではないので、お嫁さんにしたら暮らしにくさを感じながらの毎日だと思います。一方で子育ての経験はもちろんのこと、同居の経験もある私にとっては、まるで、過去の自分を見ているような毎日です。当時の私は自分をとことん可哀想だと思っていました。しかし、お嫁さんと暮らしていく中で気持ちが変わりつつあります。義両親と住んでいた頃に抱いていた『辛い・悔しい・寂しい・理不尽だ・鬼だ・逃げたい・消えたい・不幸だ』という感情を上回るくらいに『私はものすごく、本当に、よく、頑張った』と思えるようになったのです。
人生47年。子ども、親、妻、嫁、姑、おばあちゃん、と6役こなしてきた中で、今「私」としての生き方を問われている気がしています。(愛犬との関わりを入れたら7役かな?)
生まれてから私はずっと私だったことに間違いはないけど、これからの人生はもっともっと「私らしさ」が必要だし求められていることを痛切に感じているのです。”どの立場にも立てるようになった”と言うと語弊はあるかもしれませんが、心境としてはそうです。悟った訳ではないですが、人に対する『愛おしさ』が様々な形の愛を教えてくれています。
たとえば、苛立ち、心配、不安や期待、怒りや不信感...、どれも相手に無関心であれば一切湧いてこない、愛から生まれる感情です。ムムッと感じることがあると「あぁ、私は〇〇を愛しているのだな」と思うと同時に、その〇〇が自分にとって『愛おしい』存在であることを再認識する癖をつけました。
私が思ったり望んだりする幸せと、家族各々が望んでいる幸せは違います。こうしたらいいのにと思うことや、こうなればいいのにと願う気持ちが、時に家族を苦しませることになることは過去から学びました。我が子だからこそ、夫だからこそ、家族だからこそ、いやいや、そもそも人としてこうであるべきだろうと、自分の価値観で物事の善悪を判断したり選択をしていたがために、大事にしていた自分のその価値観に自分が苦しめられるという、なんとも本末転倒なスパイラルが生じていました。それを、私は私、人は人という区切りをつけたら気持ちが随分楽になりました。これも、一つの愛の形だと私は思います。
『愛おしい』という言葉を調べると、『愛している』とは違った意味があることがわかります。厳密に言うと『愛おしい』と『愛してる』はイコールではありません。でも、愛してないと愛おしさは湧いてこない感情だと思いますし、愛おしさが愛に気づかせてくれることもあるでしょう。
自分の心に沸き起こる感情のすべては愛から湧いてくるものだとしたら....と思うと、すべてのことが愛おしく思えてきます。実際、そう思わないと苦しくてたまらない、やってらんないという本音もありますが(笑)全部「愛」で片付けちゃうと楽なんですよ。自分も誰も責めないで済むの。その結果、傷ついたり悲しんだり、その逆もあったりするけど、愛ってそういうもんだよねって悲しみや苦しみさえも素直に受け入れられる。
愛しい人を愛おしく思える瞬間を大事にしていきたい。愛おしさのまま愛することしかできない私だけれど、それが今の私の精一杯。愛に狂ってはないけど、狂おしいくらい愛せる人がいるって本当に幸せだと思う。
愛おしくて愛おしくて、切ないくらい愛おしく、愛する人たちが、愛と幸せに包まれていつも笑っていられますように。
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