「勝ち組」「負け組」。
この言葉を初めて耳にしたとき、妙な違和感を覚えました。自分や他人を「勝ち組」か「負け組」かに振り分ける必要性を感じませんし、何を基準に誰がそう決めているのかも曖昧です。
勝ち負けという勝敗はそもそも戦う相手がいてこその結果です。
成績、記録、病気、恋愛、仕事?
何と戦っているかは人それぞれです。
私は第二次ベビーブームに生まれているので、中学も高校も1学年に12クラスあった時代を過ごしました。受験戦争という言葉も知っています。何をやるにしてもライバルが多く、部活動でレギュラーになることは大変な試練でした。競うことや順番をつけられることに慣れていた私は、家事や子育てといった成績の出ない、成果を認めてもらえない毎日を過ごすことに憤っていました。
成績が2なら3になるように頑張るし、
頑張っていることに対して5を貰えたら嬉しいし、
私の何が良くて何がいけないのか教えてよ!!
と、こんな具合です。
育った環境や時代、個人の性格もありましょう。ですから、競うことや戦うことを全面的に否定したり非難しているわけではありません。ただ、ちょっと考えてみて欲しいのです。
誰の、何のための人生なのかと言えば、紛れもなく自分の幸福のための人生です。他人の人生と比べる必要はありません。人生に勝ち負けがあるとするならば、他人の人生を見て自分が勝った負けたと一喜一憂せず、
自分が定めた目標に対して自分はどうだったか
その結果に対して何が良くて何がダメだったか
自分の生き方は自分なりにどうであるかということに視点を向ければいいだけのことだと思っています。
今日は
「誰かと勝負しているというよりも、常に自分と闘っている自分」
「自分に負けずに一生懸命生きていたい、そのために私は闘い続ける」
こんな思いを込めて書いた詩を載せますね。
日常だったり、性格だったり、過去だったり。そこには他人の存在が少なからずとも関わってくるのですが、誰かに勝ちたい、あの人には負けたくないという感情よりも、何と言いますか、毎日が自分自身の思考との闘いなんですよね。
もっと研ぎ澄ましていけるんじゃないか、もっと削ぎ落としてもよいものがあるんじゃないか、もっと、もっと、自分を高めていけるんじゃないかと、常に高みを目指す自分がいます。
正直って、それが自分のためなのか、誰かに認めてもらいたいからなのか、よく分かりません。よく分からないけれど、これだけの意地があるのなら、今の自分がそうしたいと思っていることをとことんやってみないとダメだ!と思っています。
『そうしたいと思っていること』の中には、アグレッシブな思いだけでなく、手放したい思いもあります。妬みとか恨みとか怒りとか、そういった負の感情や嫌な思い出を捨てられない自分を変えたいと願う気持ちは、もっと強く、もっと優しく生きていきたいという思いをさらに大きくしています。
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