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コラム

2019.01.14 

コラム

「成人の日」に過保護と過干渉について思うこと

こんにちは。

今日は成人の日ですね。成人式を迎えられた皆様、ご家族様、誠におめでとうございます。



私にとって子育ての一つの目標は「子供が成人する」ことでした。これは母の影響が大きかったかもしれません。「あなたたちが20歳になるまでは離婚はしない」と口癖のように母は言っていたからです。結局は80を過ぎた今も二人は離婚せずに一緒に暮らしていますが、とにかく20歳までは子供のために頑張る、頑張らなければならないという責任感を持ってきました。

ところが、20歳を過ぎたところで急に我が子が大人になるわけではなく(笑)いまだにツッコミどころ満載の我が子たち....

今まで幾度となく「自分の子育てはこれで良かったのだろうか」と子供との関係を見つめ直したり考えたりしてきました。思い悩むポイントは以下の2つでした。

これは過保護なの?過干渉なの?


過保護過干渉という言葉は聞いたことがあると思います。

Wikipediaによると、


『過干渉』とはある対象に必要以上の干渉を加えること。モラルハラスメント、虐待の一種。


『過保護』とは特にこどもの養育において、必要過多な保護、甘やかしを行う場面が多く、こども自身の自主性を尊重し過ぎ、まともな社会人として巣立つのに必要な躾けをせずに済ますことを指す。


 

今さらながら思うのですが、過保護過干渉って言葉の感じは似ていますが性質が違うものなんですね。そして、このように改めて説明されると「過保護」も「過干渉」も行き過ぎた、的の外れた子供との向き合い方なのだと痛感します。



情報番組では親子問題を取り上げていることがあります。討論されている内容は非常に興味深く、真剣に見入ってしまいます。時折、視聴者からの意見やアンケートが盛り込まれるのですが、それもまた多くの様々な価値観を知るきっかけになります。

 

”大学入試や成人式に親がついていくのは過保護か?”


 

ある時、このようなテーマで討論がされていました。皆さんは大学入試や成人式に親がついていくのは過保護だと思いますか?

いろいろな意見があると思いますが、私は過保護であるとは思いません。テレビでは過保護だとする大人の意見が多かったのですが、「私たちの時代は」とか「私はこうだった」とか、失礼ですが私にとってはどうでも良い理由ばかりでした。世の中の価値観って多数決で正解が決められてしまうことが往往にしてあるのですが、親子関係において「世の中的に」「普通は」という話でまとめられてしまうことを私は嫌います。私自身が「世の中的に」「普通は」という概念に縛られて非常に息苦しい子育てを経験したからです。

入学式や卒業式に参列するように、大学入試や成人式だって付き添いたければ付き添えば良いのではありませんか?

ただ、親が同伴することによって問題が生じることが懸念されるのであれば、それは大人として避けるべきです。例えば入試会場まで走るバスに受験生以外の人(親)が乗ることによってバスが遅れるなどの障害が起こるのであれば、親は子供をバスに乗せて見送るべきです。落ち着いた頃に試験会場に赴くか、待ち合わせ場所を決めて試験が終わるのを待つか、方法はいくらでもありましょう。

また、お子さん自身が拒否しているのに無理やり同行するのも好ましくないでしょう。行く場所の空気を読む、お子さんの心情に配慮をすることも大切です。

自分が良ければそれでいい、自分の欲求だけが通ればいい。

そんなふうに周りが見えない状態は身勝手な親(大人)であり、「過保護」「過干渉」のなれの果て(モンスター)でしかありません。

先にも少し触れた話ですが、20歳になったからといって子供が急に大人になるわけではありません。子供が親から自立していけるように、小さな頃から年齢にあった躾や教育をしていくのが、自立までの大切な準備期間なのだと思います。

「はい、20歳!」と言われて、昨日までと何かが急に変わるわけではありません。お酒やタバコに手をつけることが許されることくらいでしょう。社会では20歳を意識させられることがあるかもしれませんが、精神的にはさほど変わりません。

自立には、精神的自立と経済的自立があります。子供の自立の時期まで、親はそのどちらもサポートしていく立場だと思うんですね。過保護でも過干渉でもなく、あくまでもサポート。子供が親を必要としてきたときに助けてあげられる体制でいたいと思っています。

「心配ばかりしないで、子供を信じることが大事だよ」


「子供を信じてないから不安になるんだよ」


「もっと子供を信用してあげなきゃ」


私は周りからこう言われることが多かったのですが、我が子を信じていなかったわけではありません。信じるばかりではなく疑うことも必要だと思っていました。それゆえに不穏な空気を感じると疑い深くなり、心配ばかりするようになり、結果的に不安が的中する回数が増え、「信じていたのに裏切られた」と落ち込み、自分の子育てを反省し、自己嫌悪になり・・・という悪循環を繰り返していました。

子供を信じることは簡単なのです。だって、愛する我が子なのですから。私に足りなかったのは信じることではなく、受け入れて見守り、サポートをすることでした。信じている気持ちが強いほど想定外の出来事を受け入れ難くなります。受け入れられないと次には進めません。進めなかった(自分を責めることで子供と向き合えなかった)から同じことを繰り返していたのだと思います。

 

日本の社会では「子供は大人になっても親の子」という風潮が強く、


子供を1人の成人とみなせる親が少ないのが現状である。(Wikipediaより)


 

風潮というよりも事実として、親にとっては「いくつになっても子供は子供」という感情があるのではないでしょうか。しかし、ある程度の年齢になれば(成人年齢の前後)一人の大人として社会に送り出し、接することが親の役割でもあります。(と言いつつも、実際は年齢だけで「大人」か「子供」かを判断するのは難しいとは思います。健康状態や精神状態、家庭の事情や就業の問題など、様々な問題を個々に抱えていますから)

いつまでも子供のままでいてほしい。


いつまでも自分のそばにいてほしい。


いつまでも子供に必要とされていたい。


そんな気持ちが行き過ぎてしまうと、我が子を溺愛し支配し、過保護過干渉の道に走ってしまいます。子供は親離れを、親は子離れをしていかなくてはなりません。それが、お互いにとっての「自立」です。そこを意識するかしないかで、親子関係は大きく変わってきます。

 

子育てに正解も不正解もないと思っています。親子の数だけ親子の形があって当然です。でも、親が親として教えておくべきことというのは共通してある気がするんですね。子供の自立心を上手に育てられる親でありたいと番組を観てつくづく思いました。親の役目は「子供を自立した大人に育てること」だと。

「子供のために」

そこを違った解釈で突き進んでしまうと、確実に過保護過干渉になります。本当に子供のためにと思うなら、自分が子供のそばにいられなくなったときのことを想定し、子供が一人で生きていくことに困らないような術を教えていくべきなのです。

 

”何かあった時に自分で問題を対処できるようになって欲しい。”

 

子供たちにはそんな思いを持って接してきたつもりでしたが、今までの私は、考えさせるよりも先に自分の考えを子供に言ってしまっていた気がします。

「教えることと考えさせることのバランス」が悪かったかもしれないと思います。自分で考えたり調べたりするよりも先に、誰かに聞いてしまう(教えてもらう)癖をつけてしまったかもしれません。今はスマホやパソコンで検索したら大抵のことは答えがわかります。

わからないことを調べるということは、危険を予知できるようになることに繋がるんです。これがこうでこうなる。だからこうなのだ、という段取りが踏めるようになるんです。ですから、分からないことを放っておけたり調べたりしないって、予知ができないことに繋がるんですよね。予知ができないということは、危険察知能力に欠けるということになります。「知らない」ということに恐ろしさを感じられないと、常識に欠けた行動を平気でとってしまうこともあるのです。

 

 

 

過保護過干渉

この二つと「愛情」というものは紙一重なのかもしれません。

愛するが故の過保護、愛するが故の過干渉。

繰り返しになりますが、子育てのゴールがあるとすれば、それは、子供が自立していくことだと思います。子供が自立するために親が出来ること。それは、過保護に育てることでも過干渉になることでもありません。

「これって過保護?過干渉??」

時にこんなふうに悩むことがあるかもしれません。そんな時は世の中の物差しではなく、うちの子にとってこれは過保護なのか、我が子にはどこまで干渉すべきなのか、お子さんと親御さんの両方が上手に自立できるすべは、ご家庭の中に答えがあるはずです。

 

客観的な判断が欲しい時には先輩ママや先輩パパ、専門家にお尋ねになるのも一つの解決方法です。私にもお役に立てることがあるかもしれません。お気軽にご相談ください。

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